公開日:2016年10月30日/更新日:2018年11月15日
あなたは「三味線」と聞いてどんなイメージを持たれますか?
「堅苦しいそう」「難しそう」「厳しそう」
というイメージを持たれているかもしれません。
ですが、
「興味がある!」
「機会があればぜひやってみたい!」
そのように思ってくださっている方も、きっといらっしゃると思います。
はじめまして。
私は高知県で三味線演奏・指導をしています、花枝(はなえ)と申します。
ここでは管理人である私「花枝」と、このブログ「花枝の三味線ブログ〜小唄の師匠は考えた〜」について話します。
このブログで、少しでも三味線を身近なものに感じていただける一助になればと思います。
それではまいります。
- 高知県の三味線演奏・指導家です
- 普段の仕事は三味線の演奏&指導
- 小唄・田村流のWebコンテンツ作り
- 伝統芸能と三味線の人生
- 20代後半〜30代の海外経験と海外生活
- 今現在とブログの成り立ち
- これからやってみたいことは「可能性の追求」
- 三味線をもっと気軽に知ってもらうためのツール
- 三味線のバンドを組んでみました!
- フットワークの軽いインドア派
- 私の名前「花枝」はリアルな芸名
- 現在の私のリアルな活動
- =お問い合わせ=
高知県の三味線演奏・指導家です
<地元の景色です。>
私は海と山と川の恵みが豊かな高知県に住んでおり、三味線演奏と指導をしております。
三味線と一口に言っても、色々な流派や種類があります。
その中でも私は
- 小唄(田村派)
- 常磐津節
の二つ流派を専攻し、今もなお学んでいます。
どちらも師範の免状を取っております。
普段の仕事は三味線の演奏&指導
三味線指導は私自身が経営する教室での指導がメインです。
その傍ら、小学校や高校などの教育機関への三味線指導も行っております。
<小学校での三味線指導の様子>
不定期ですが、国際交流のために高知県在住のALT(英語指導のアシスタント)の先生方に三味線指導もしております。
三味線の演奏は、主に高知県内のイベントにて演奏することがほとんどです。
最近は、海外からの大型クルーズ船の歓迎演奏をしております。
<2017年9月・高知新港でのクルーズ歓迎演奏>
小唄・田村流のWebコンテンツ作り
私は小唄の田村流を学んでおり、現在は田村流の師籍を取って活動しております。
「田村流の小唄をもっと広く知ってもらいたい…!」
そんな気持ちから、田村流のWebコンテンツ担当をさせていただいております。
↓こちらは、田村流の公式ホームページです。
まだまだ発展・改善の余地はありますが、ホームページを作らせていただきました。
伝統芸能と三味線の人生
次に、私の芸歴について話します。
各年代ごとに話すと長くなるので、ここではかいつまんで紹介する程度にしておきます。
*学生時代(中学・高校時代)
私は5歳の頃から日本舞踊(坂東流)と茶道(表千家)を習っていました。
主軸になっている三味線は実は一番始めたのが遅く、14歳の時に始めました。
当時の私は絵を描くことが好きだったのですが、習い事をするか絵を描くか…と、非常に偏った青春時代を送りました。
*弟子入り時代(18〜21歳ごろ)
高校卒業後は、大阪にて3年半ほど三味線の勉強をします。
大変高名なお師匠様に弟子入りするものの、大変厳しい伝統芸能の世界に衝撃を受けました。
19歳で常磐津節の名取になり、稽古に励む傍ら、プロとして舞踊会などで演奏していました。
ですが、あまりにも自分のやっている三味線の世界に未来が見出せなかったことや、自分自身も三味線に対する情熱が消えかかっていたこともあり、一度三味線をやめてしまいました。
*20代前半は伝統芸能の世界で悩んでいた(21〜24歳ごろ)
その後、地元に戻ってからは三味線から少し距離を置きました。
三味線から距離を置いていた間は、非常勤の事務仕事などをしていました。
それから半年ほど経ったころ、料亭で三味線を弾く仕事を頂くようになりました。そのことがきっかけで、また三味線の世界に戻ります。
その後、22歳で三味線の師範になり、教室も持つようになりました。
それでもまだ伝統芸能の世界が持つ独特な上下関係や人間関係に悩みました。
自分自身がそのような世界で生きるのが苦しく、
「どうして自分は伝統芸能の世界に馴染めないんだろう…。」
と悩んでいました。
その頃、三味線の世界で鬱々とした気持ちを少しでも和らげようと、文章を書くことを始めます。それは地元新聞への投稿でした。
一番頻繁に投稿していた時では2ヶ月に1回ほどの割合で掲載してもらっていました。自分の意見が紙面に載ること、そして自分の意見が誰かの心に届いているということを実感できました。
それと同時期ぐらいに、地元新聞の主催の一コママンガでも年間優秀賞を頂きました。
「自分が趣味として続けてきたイラストで誰かに喜んでもらえている…!」
ということも大変嬉しく、絵と文章で自分を表現することに興味を持つようになりました。
*20代後半からの挑戦(25〜28歳ごろ)
私は伝統芸能の世界のなかの人間関係に悩みながらも、新しいことに挑戦する心は常に持ち続けていました。
これからは「自分で何かを新しく立ち上げ、挑戦し続けて行くことが大切なのかもしれない」と思い、以降さまざまなことに挑戦を始めることとなります。
20代後半〜30代の海外経験と海外生活
私は英語はできませんでしたが、実家がホストファミリー協力家庭だったということもあって、海外の方との交流が少ない環境ではありませんでした。
加えて、家族の中でも特に私が「海外に出る」ということに、あまり抵抗がありませんでした。
そんな怖いもの知らずな性格も手伝って、「三味線が出来る」ということを武器に、20代後半は国際交流を軸に様々なことに挑戦しました。
*世界青年の船事業に参加(26歳ごろ)
まず、2012年に内閣府の国際交流事業「第24回・世界青年の船」の選抜に合格し、日本代表青年として参加します。
「ふじ丸」という船でシンガポール、インド(チェンナイ)、スリランカ(コロンボ)へ行きました。
船の中では海外青年と文化交流をしたり、三味線を教えたりしていました。
この交流事業は40日間程でしたが、初めての長期の国際交流事業参加となりました。
(ちなみにこの事業内で「リーダーシップ育成コース」を履修していました。)
*アメリカのディズニーワールドで”寿司職人”として働く(29〜30歳)
2015〜2016年は初めての長期海外滞在となりました。
アメリカのフロリダ州にあるウォルト・ディズニー・ワールドで働くCRプログラムに合格し、1年間ディズニーワールドで寿司職人として働きました。
海外に住むのも、働くのも、ましてやお寿司を作るのも初めての経験でした。
心優しく愉快な同期、かっこいい先輩、可愛らしい後輩、そして素敵な上司に囲まれて、とても楽しく仕事ができました。
<レストランのエントランスにて、同期のルームメイトと一緒に。>
働いていたのは、TOKYO DINING(東京ダイニング)という日本食レストランです。
こちらの写真のような寿司カウンターがあり、お客様とも距離の近い職場でした。
<勤務していたレストラン、TOKYO DININGの寿司カウンターにて。この時、"Sushi-Show”というお寿司を作るデモンストレーションをやっていました。>
一年間の勤務を終え、ミッキーにお祝いされての離職となりました。
<2016年1月・アメリカのディズニーワールドのエプコットにて。勤務終了特別イベントでミッキーと一緒に>
仕事では寿司職人でしたが、三味線の活動も続けることができました。
地元の日本人の方に三味線を教えたり、ディズニーのタレントコンペティションで三味線を演奏する機会にも恵まれました。
<ディズニーワールドの敷地内にあるライブハウス、House of Bluesにて演奏>
このディズニー就労についてはこのブログでも写真屋イラスト付きで情報公開しています。
20代後半は三味線との距離に悩みながら、体当たりで
「三味線の指導者としてどれだけ振れ幅の大きいことができるのか?」
ということに挑戦した期間だったと思います。
日本には三味線の指導者は数多くいます。
ですが、「世界青年の船」に参加し、「ディズニーワールドで働いていた」三味線の指導者は、あまりいないのではないかな…?
と、手前味噌ですが思っています。
今現在とブログの成り立ち
ブログは2016年、アメリカからの帰国後に始めました。
帰国後は
「自分の限界を決めずに、三味線をPR出来る活動なら頑張ってやってみよう!」
とWebコラムに挑戦しました。(ninoyaブログさんで書かせていただきました。)
ちょうどアメリカのディズニーで働いていた時のこともブログにし始めるようになりました。(そちらは2018年10月に閉鎖しました。)アメリカでの一年で、私は三味線ときちんと向き合えることができたのですから…。
そして、「三味線のこともコラムだけじゃなくもっと…もっと書きたい!」と思うようになり、このブログを始めることになりました。
三味線や伝統芸能のブログやコラムはあまりないのでは…?
しかも三味線のことを”ゆるく”語っているブログは少ないのでは…?
…と思い、三味線をもっと面白く知ってもらうための記事を考えています。
これからやってみたいことは「可能性の追求」
かつて…いえ、今現在もそうですが、三味線を仕事にする方法は
- 演奏
- 指導
いずれのどちらかしかありません。
本当はもっと他にもあるのかもしれませんが、特に女性は「演奏」よりも「指導」に特化している印象がありました。
「演奏」や「指導」以外に三味線が仕事になる方法はないだろうか?…これは、ずっと考えていることです。仕事…というよりかは、社会に何かしら影響を与えられる形、普及のための形を考えています。
三味線をもっと気軽に知ってもらうためのツール
もちろん「演奏」できる場所や機会の選択肢を増やすこと、そして「指導」のやり方を考えることを考えることも重要なことです。
私はブログを書きながら考えています。「三味線を扱うWebコンテンツで、面白く、堅苦しくなく、興味を持ってもらいやすいものを作れないか?」と。
一例としては…
フットワークの軽さを活かし、ドイツのヘルゴランド島で三味線を弾いたり…
ドイツでゲームミュージックを三味線とピアノで奏でたり…
絵を描くことが好きですので、三味線のイラストを描いてみたりしています。
「執筆」という形でアプローチも取っていますが、このブログもその一環です。
何かアイデアがありましたら、ぜひ教えてください!(^^
三味線のバンドを組んでみました!
そして、新しい演奏活動の一環として2017年10月から
高知望郷楽団
というバンドのメンバーとして、演奏活動をしています。
ピアノとパーカッションと三味線のアンサンブルで、クルーズの歓迎演奏などで演奏させていただいています。
このメンバーでドイツへも演奏に行きました。
フットワークの軽いインドア派
<2017年6月・ドイツのヘルゴランド島にて>
私は自分のことをフットワークの軽いインドア派ではないかな?と思っています。
漫画も好きで、「ジョジョの奇妙な冒険」は大好きな漫画の一つです。こんな記事も書いています。
私の趣味は読書、映画とインドアなものが多いですが、音楽を聴くことも好きですのでたまに好きなバンドのライブにも行っています。
もちろん色々好きなバンドがいますが、ここでは18歳の時から大好きなthe band apartの名前を挙げたいと思います。
また、趣味の延長で県外から高知に遊びに来てくれた友人に観光案内をすることも、趣味の一つです。
「勝手に観光大使」
と名乗って、勝手に高知を案内しています。
誘われたら参加するというフットワークの軽いインドア派で、うっかり空中ブランコを体験してしまったこともあります。
もちろん私はフリーランスなので、仕事のことなどやらなくてはいけないことなどは多々あるのですが、健康を心がけ、積極的に暇人でいることがモットーです。
私の名前「花枝」はリアルな芸名
”花枝”は私の芸名です。リアルな芸名です。
「はなえ」と読みます。
本名から一文字、そして、先代の小唄のお家元様のお名前から一文字いただきました。
現在の私のリアルな活動
<2017年9月・アメリカのディスニーワールドにて>
私はアメリカのディズニーで働くまでは、数多くの「しがらみ」のようなものに囚われ、自分の思うように活動できませんでした。
帰国後はそのしがらみもだいぶ乗り越えられるようになり、三味線の仕事も個人的に受けられるようになりました。
一番上の項目にも書きましたが、仕事としての三味線は演奏と指導です。
主に地元である高知県で活動しています。
高知県に寄港するクルーズのお客様へ三味線の演奏をしたり、県内イベントに出たりしています。
↑こんな感じで!
あとは個人的に三味線教室もやっています。
こちらはオフラインでの案内ですが、このサイトの中にも情報を掲載しています。
=お問い合わせ=
お問い合わせはこちらのメールフォームからどうぞ。
◆SNS関連
◆個人HP
三味線の演奏や指導、お仕事の依頼もお受けしております。
…と、長くなりましたが、三味線が誰にとっても身近で面白いものになりますように!私でできる活動を続けて行きたい思っております。